50 飛べ、日の丸航空機 ③
2018.10.31
1959年、YS-11の開発が国家プロジェクトとして、qualify,,,認可されました。ちょうどこの頃、土井さん達ベテランはプロジェクトに,farewell, ,別れを告げました。これまで頼り、慕ってきた土井さん達が去り、若手達は,grieve,悲しみ、心は,hollow,,空虚になりました。しかし、proficient, ,熟錬設計者で新たなリーダーとなった東条さんは、プロジェクトの成功を,assure,確約し、同時に「死ぬ気になって設計に取り組んで欲しい」と訴えました。この言葉で若手達は心を,penetrate,突き抜ける、あるいは,suppress,抑圧していたstrain,,緊張から解放され、それ以降は一開発にまい進していきます。東條さんはメーカーから,delegate,派遣された,ingenious,創意工夫の人でした。Humble,,謙虚ではあるが,rigid, ,,厳格。連日徹夜のミーティングで若手を鍛えました。 1962年、とうとう日本,indigenous,,,固有の,massive, ,,巨大旅客機YS-11が完成し、名古屋空港で大勢の,spectator,見物人や,coverage,取材目的のメディアに披露されました。Countless,,,無数の観客に混じって、5人のベテランも久しぶりの,reunion,再会をし、かつての,grim, ,厳しいそれとはうって変った,moderate,温和な表情を見せました。そして、YS-11は見事に大空へ,soa,r,,舞い上がりました。その,spectacle, ,,壮観に空気を,tremble,揺るがすほど大きな拍手が沸き起こりました。戦前、航空機は日本得意の,realm,領域であり、多くの名機を生産しました。戦後,obsolete,廃れた国産航空機の復活は日本人の誇りを,sparkle,輝かせたのです。 YS-11はその後、当初予測できなかった,fatal, ,,致命的な,flaw,欠陥を克服し、その,excess,,,過度なまでに頑丈で,durable,,,長持ちの飛行機は1972年までに182機が生産されました。その後の30年のブランクは航空機開発にとっては,sheer,まったくの,vain,,,無駄な期間で、これを惜しむ多くの人がいました。しかし、平成になってから三菱、ホンダがスーパーコンピュータを駆使した、高性能の航空機を1000機ほど製造することを発表しました。どんな,anecdote,逸話が生まれるか、期待しましょう。